広辞苑を読破する

広辞苑第六版を1日10ページ読む中で、気になった言葉を紹介します。

アイロニー

①皮肉。あてこすり。反語。②ソクラテスの用いた問答法。議論の相手を知者とし、自己は無知を装いながら、対話を通じて相手の無知をあばき、それによって真の知を求める方法。

 

僕が気になったのは②のほう。

詳しく知らないんですけど、ここで言う議論の相手っていうのは自己の頭の中につくるのか、それとも実在する人なのかどっちですかこれ。

ほんで実在する人だとしたら、ソクラテスあまりにも攻撃的すぎん?

相手の無知をあばきって言うてもうてるやん。

相手を一旦知者に見立てておいて、気持ち良くさせといてからの、無知を思い知らせる。えぐいて。

さらにえぐいのが、そこから自分は真の知を得ようとしていること。

え、人間を道具か何かやと思てます?おいこらソクラテス

人間の心持ってよ。

 

で、たぶん前者の自己の頭の中につくるだと思うんですよね。

これ、けっこう良い方法だと思ったんですけど、僕はやったことなかったですね。

用は、自分が知りたいと思っていることに対しては、一旦知者になりきって、頭の中で井上公造さんにジャーナリズムを発揮してもらえばいいということですね(?)

 

他にも気になったの言葉で、合うも不思議合わなも不思議という言葉がありました。

これ、僕の中ではほぼ合縁奇縁と同義語です。

要するに、不要な言葉。

合縁奇縁

人の交わりには自ずから気心の合う合わないがあるが、それもみな不思議な縁によるものであるという意。

 

 

この言葉は、福山雅治の化身という曲の歌詞でしか聞いたことないので、僕にとっては音符つきです。

意味を読んでみて思ったのですが、この言葉必要ですか?

合縁と奇縁という二つの言葉がくっついているということは、恐らく奇縁という不運に対して合縁のことを思い出して耐えろよ的なメッセージ性で生み出された言葉ですよね。それも奇縁に悩んでいる人より年上目線の。

現代J-POPにはびこる、止まない雨はない的な精神性に通ずるものがありますね。

ゆるキャン△で描かれた優しさ

「今日は、なでしこのソロキャンプですから」

 

ゆるキャン△シーズン2のエピソード8を観た。

ソロキャンを続けるリンちゃんに影響されて、ついにソロキャンをすることにしたなでしこ。

しかし、ソロキャン当日、なでしこにラインを送っても既読にならず、電話をかけてもつながらない。

心配になったリンちゃんはなでしこのいるキャンプ場に向かう。

そこで見たのは、キャンプを通して仲良くなったであろう人達に手を振るなでしこの姿だった。

 

りんちゃんは、キャンプ場を去ろうとする。

そこに居合わせたなでしこの姉である桜さんに、どうするのか問われる。

 

「私も帰ります。今日は、なでしこのソロキャンですから」

 

すぐ会える距離にいるのに会わない優しさ。

 

 

私は某テレビ番組『はじめてのおつかい』を連想した。

子どもを成長させるため、母は心配な気持ちを押し殺して子どもに任せる。

そこで見せる子どもの頑張っている姿に、私たちは涙する。

 

しかし、はじめてのおつかいとゆるキャン△には決定的な違いがある。

 

それは、感動を売り出しているか否か、だ。

 

ゆるキャン△で発せられたリンちゃんのセリフは何気なく、さりげない。

さもそれが何ら特別なことではないかのように。

このさりげなく描かれる人の優しさに、私はゆるキャン△の真髄を見た。

 

決して感動を売り出してはいけないとは言わないし、はじめてのおつかいはもちろん素晴らしい番組である。

私が言いたかったのは、これほどの優しい友情がおそらくこの世には存在しているという喜びであり、そしてヒットコンテンツである、ゆるキャン△を通して描かれた意義の大きさである。

 

人が人を想い、一歩引く。一歩踏み出すのではなく。

 

こういう優しさが、もっと溢れる世の中になればいいなと切実に願う。

 

私は本当に素晴らしい作品に出会った。

コロナ禍のライブ

何気なく立ち上げたYouTube

 

SUPER BEAVERライブ配信を行っている。

 

僕はそれを開く。

 

そこには久しく観ていなかったライブハウスの光景があった。

 

観客がいる。

 

どうやら声を出していないみたいだ。

 

手を叩いている。

 

 

2曲目の「正攻法」から「証明」「らしさ」

 

かつてライブで観たSUPER BEAVER

 

その時の興奮、熱気、心情が鮮やかに蘇ってくる。

 

嬉しくて涙が出てきた。

 

 

音楽を、止めてはいけないと思った。

 

思えばまだ人々がコロナの脅威に脅かされていない頃、ライブハウスでクラスターが発生し、そこから音楽が止まってしまっていた。

 

でも、止めてはいけない。

 

音を鳴らすんだ。

 

僕はそれを必ず聴くだろう。

 

 

15th Anniversary 都会のラクダSP~ラクダの決着、豊洲3本勝負!~

~day2~

http://youtu.be/gLe3jdCrH7A

ショートショートを書いてみた

おはようございます。

 

先日、年の瀬の挨拶をしたところですが、作品を投稿したので宣伝です。

 

ショートショートってどれぐらい一般に浸透しているのでしょう。

 

星新一さんとか田丸雅智さんとかが有名です。

 

私も書いてみました。

 

是非。

 

kakuyomu.jp

小説を書きました

ご無沙汰しております。

 

今年はチャレンジしようと思っていたことが未達になってしまいました。

 

そのうちの一つの足掻きとして、ある小説を公開することとします。

 

拙いに拙いを重ねた駄文を笑いながら、よいお年をお迎えください。

 

kakuyomu.jp

ブログを再開します

こんにちは。

 

ガイちゃんです。

 

以前、このブログを読んでくださっていた方には申し訳ありませんでしたが、諸般の事情によりすべての記事を削除させていただきました。

 

それから大分期間は空きましたが、ブログを再開いたします。

 

理由としては、大きく一つ。

 

アウトプットをする機会を持ちたいということです。

 

最近、コロナ禍で自宅にいる時間が増えていて、動画配信サービスの隆盛は体感として著しいものがあると感じています。

 

そのような流れの中でアウトプットのメディアとしてブログを選ぶことは果たして賢明と言えるのか。

 

そういった思いもあるにはあります。

 

しかし、顔が見えないからこそ、想像する力も生まれるのではないでしょうか。

 

この人の顔が好きだとか、この人の声が好きだとか、そういうのと同じレベルで、この人の書く文章が好きだと。

 

そう思ってもらえれば私にとってこれ以上の喜びはありません。

 

そして、なぜアウトプットをするのかというところですが、インプットの質を上げるためです。

 

私は、生きていく上で、知見を得ていきたいという思いがあります。

 

だから、インプットは様々な手段により行ってきましたし、これからも行っていきたいです。

 

その精度は、アウトプットをする場があることにより確実に高まります。

 

人に何かを伝えるためには曖昧な理解では絶対に伝えきれないので、調べる習慣が自然と身に着きます。

 

そういった効用に期待して、このブログを再開することは、私にとって必要だと考えました。

 

 

そもそも誰も知らないようなブログですし、これまで長い間記事が全くありませんでした。

 

それでも、このブログにはずっと誰かがアクセスしてくれていました。

 

現在、累計で約25,000のアクセスがあります。

 

これが多いのか少ないのかは正直分かりませんし、きっと少ないと思います。

 

それでも、一人の素人として発信したものが、数十や数百の単位を超えて影響を与えているのかもしれない。

 

その可能性を、少しだけ信じてみたいと思います。